カリノ界隈

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手術台の上の壊れかけのradioと音楽の過剰性

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セックスの時に音楽はかけないという男友達がいた。理由は、行為にドラマチックな色づけをされるのが嫌だから。私自身は最中の音楽についてはやぶさかではないけれど、言っていることは理解できた。音楽は時々、私たちにとって様々に過剰だ。

 

数年前、私は手術室にいた。不育症という厄介な体質のおかげで流産を繰り返す私は、その日、3度目の流産手術を受ける。しかも胞状奇胎という稀な症状を抱え込み、1週間後にもう1度同じ手術を受けることになっていて、さらに1年間は妊娠を避けなければいけないことも決まっていた。

その時の気持ちはなんて言えばいいんだろう。悲しいとか絶望とかではなく、空っぽだった。自分で自分の感情を決めかねている、そんな感じ。感情が存在しない中、現実だけが、淡々と、でもすごい速さで過ぎていった。

 

手術室に入った時も同じ。私は特に何の感慨もなく短い廊下を歩き、言われるがままに手術台にのぼり、そこに横たわった。そしたら聞こえてきたのだ。徳永英明の「壊れかけのradio」のイントロが。

 

私は最初、たしかムッとしたんだと思う。こっちはこんな状況でここにいるというのに、何でノー天気に音楽なんて流しちゃってるのか、と。でもすぐに「いやいや」と思い直す。私にとって非日常なこの場所も、彼ら、医者や看護師にとってはいつもの仕事場なのだ。音楽くらい好きに流したいよね、と。さらに、私にはよそよそしいこの場所も、誰かにとってはありふれた日常の場なのだということが、私をとてもホッとさせた。そして、手術台の上で感じたこの「ムッ」と「ホッ」は、私が抱いた久々の感情だった。

 

それにしても、徳永英明である。「壊れかけのradio」である。なんて絶妙な選曲だろう。あの時の私に必要な哀しみとおかしみと希望と絶望が全部詰まっている。AKBの「ヘビーローテーション」とかじゃ、悲劇性が際立ってしまうし、椎名林檎の「茜さす帰路照らされど」とかだと、エモ過ぎる。この曲のおかげで、私の不幸は日常に馴染み、かたちのあるものになった。

 

かたちのあるものなら乗り越えられる。

 

誰かに語るのも憚れるようなことに思えたのに、この曲のおかげで、他人にこの経験を話せるようになった。「手術台の上で壊れかけのradioが流れたんだよ」と私が話すと、それまで深刻な顔つきで聞いていた相手が、「えー」と言いながら笑いをもらす。そのことに、私がどれだけ救われたか。

 

ほんとにドンピシャの選曲だったので、もしかしたら手術の時には決まって徳永英明なのかもと思ったけど、次の手術の時はジャミロクワイの「Virtual Insanity」だった。悪くないけど、やっぱり英明にはかなわない。

 

私は時々、やっとの思いで生んだ娘に、この「壊れかけのradio」を歌ってきかせたりする。娘の反応はその時によってまちまちで、完全無視をきめこんだり、黙れと言わんばかりに私の口を塞いだりする。熱心に聴きいったり、うっすら涙を流すようなことはない。現実はそんな簡単にドラマチックにはならないのだ。

 

今、もし件の男友達に会ったら、「じゃんじゃん音楽かけてやったらいいじゃない」とアドバイスしようと思う。